現在のCPR(Cardio-Pulmonary Resuscitation 心肺蘇生法)の基本概念である人工呼吸、胸骨圧迫心臓マッサージ、電気的除細動の3つの手技が確立したのは1960年である。
心肺蘇生法国際ガイドライン2010の発表年はCPR50周年に当たり、米国心臓協会(AHA)では記念行事がとり行われた。
日本循環器学会においてもCPR普及に取り組み始めて10年が経過し、今年3月16日から18日に福岡で開催された第76回日本循環器学会にてCPR10周年記念行事として「CPR啓発活動の先駆者から学ぶ−CPR50周年・国内での普及20周年・日循CPR10周年」の記念シンポジウムが開催された。
日本におけるCPR啓発の先駆者として、筆者と前岩手医科大学循環器内科教授の平盛勝彦先生が、「国内でのCPR普及20周年−兵庫県での県民運動」、「国内でのCPR普及20周年−岩手県での県民運動」と題した講演を行なった。
講演の終了後に贈呈式がとり行われ、日本循環器学会と米国心臓協会から長年にわたるCPR普及啓発活動に対して感謝状と米国心臓協会からは記念盾を頂戴した。
過去を振り返れば、心臓外科医として米国留学していた1986年1月22日にバレーボールのハイマン選手が試合中に倒れ、何もされずに担架で会場から運び出された。そのテレビ映像を見た米国の友人が「日本人は、なぜ、CPRをしないのか」と批判されなければ、日本人の『命の教育』の欠如に気づくことはなかった。
「心臓で倒れるならシアトルで」と言われるまでしたCPR普及啓発の先駆者ハーバービュー・メディカルセンターのレオナルド・A・コブ教授から「啓発活動が実を結ぶまで25年はかかる。25年以上続ける決意がなければ生半可な啓発活動はすべきでない」との教えを受けなけば啓発活動を続けられなかったと思う。
しかし、今回、なりよりもうれしかったのは、会場の前列に国立循環器病センター名誉総長の川島康生先生の姿を見かけたことであった。川島先生は、私の恩師である故和田寿郎先生の和田移植以来、低迷していた心臓移植の再開に向けて啓発活動を行い現在の臓器移植の再開を達成された心臓外科医である。会場には循環器内科医がほとんどで、ただ一人の心臓外科医ではないかったかと思う。
学会終了後に思いがけず手紙を頂戴し、「心臓外科医として華々しく活躍しておられた先生が、忽然としてその舞台から消えられた時には色々な憶測もいたしましたが、既に長い年月が過ぎて、私も全く忘れていました。今回の学会でプログラムに先生の御名前を発見した時にも、まだ先生ご自身であるかどうかは疑念を持っていましたが、先生の御姿に接し、ご意見を拝聴し、大いに納得いたしました。」と書かれており、心臓外科医を辞めてCPR普及啓発に専念した私のその後の人生を理解していただいたことに望外の喜びを感じた。
今や日本におけるAED普及台数は30万台以上に達し、学校、駅、デパート、公民館、競技場、商店街などいたる所に設置されている。川島先生も手紙の中で書かれていたが、「いくらAEDが設置されても、それを使う人がいなければ無用の長物であり、AEDが来るまでの間こそが本当に大切で、そのことの啓発が益々必要である」。
今回の記念講演の結論は、声をかける『勇気』,命を感じる『必死さ』で講演を終えた。
続く
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