「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.69:
兵庫県スポーツ賞受賞:心肺蘇生法普及34年を振り返って

  令和元年の兵庫県スポーツ賞は、過去34年にわたる心肺蘇生法(CPR)およびAED市民普及に対して評価されたものと思い、兵庫県民として光栄に思っている。
  私が心肺蘇生法の市民普及啓発を決意したきっかけは、1986年米国留学中にバレーボールのフロー・ハイマン選手が松江で行われたダイエー対日立の試合中に突然死したテレビニュースでした。控えのベンチにいたハイマン選手が前かがみに倒れ、試合は中断することなく、担架が運び込まれ試合会場から搬出される光景であった。このニュースを見た同僚が、「なぜ、タイムにしないのか」、「なぜ、監督、コーチはCPRをしないのか」、「選手より試合の方が大事なのか」、異口同音に日本人である私に批判の言葉を浴びせた。
  ロスアンゼルスオリンピックの銀メダリストであるハイマン選手の知名度が高いのは当然であるが、「どうして死んでいるか生きているのがわかるのか」、彼らの批判は単なる結果論と思っていた。
  米国では、一番死亡者数が多かった急性心筋梗塞・心臓突然死対策に1970年代からミドルスクールの1年生の保健体育の授業でCPR講習が行われおり、実際の授業を見学して初めて日本人には教えられていないものを知った。目の前で人が倒れた時、「まず意識の確認を行い、意識がなければ救急車を呼ぶ」というCPRの最初の手順であった。まさに、「命の教育」であった。
  運よく、1987年に兵庫県立姫路循環器病センター救命センター長の職を得て、帰国後、心肺蘇生法の市民普及啓発運動をスタートすることができた。
  自分の命を守るには、他人の命をまもる「お互いの命を守る社会づくり」を大義名分に掲げ、「あなたは、愛する人を救えますか」をキャッチコピーにして、心肺蘇生法の実技講習を通じて一般市民に「命の教育」を行った。
  目の前に人が倒れたなら、すぐさま「大丈夫ですか」と意識の確認を行い、意識がなければ大声で「誰か来て!」と叫ぶことであった。
  こうした市民普及啓発運動が当時の貝原俊民兵庫県知事の目にとまり、1990年から5年計画で兵庫県民550万人の2割普及する心肺蘇生法普及運動がスタートした。計画通り108万人の講習が達成できた。
  CPR国際ガイドライン2000において、一般市民によるAED使用が推奨されたが、日本では医師のみが電気的除細動を行うことができると医師法で定められおり、救急救命士が医師の指示の下でAEDを行えるだけで、一般市民に不可能でした。
  20025月の日本と韓国で同時開催されたワールドサッカーに向けて競技場にドクターがAED持参する体制づくりと県内のスポーツイベントの緊急時使用を目的に、まず兵庫県医師会を中心に医師がAEDの購入をして、医師会員中心のAED講習会を開催した。
  AED普及の追い風になったのは、20021121日にスカッシュ運動中に亡くなった高円宮さま、次いで1124日に開催された名古屋・福知山マラソンで3人の心臓突然死事件があり、マスコミに中高年のスポーツ時の心臓突然死を大きく取り上げられた。心臓突然死に対するAEDの社会的関心が高まった。
  おりしも時の総理大臣であった小泉首相が掲げた構造改革特区構想があり、20037月に心肺蘇生法先進県である兵庫県において一般市民がAED使用ができる構造改革特区申請が採用され、よく20047月から一般市民によるAED使用が認められた。
  2006年のじぎく兵庫県国体では、各会場のAED設置を目指して700台を購入し、1000名の大会ボランティアがAED対応ができる国対史上初めての「AED国体」を実現できた。
  米国心臓協会(AHA)が心肺蘇生法普及を始めてから50周年に当たる20123月に日本における心肺蘇生法普及の先駆者として表彰を受け、同時に日本循環器学会からの表彰を受けた。
  思い起こせば、帰国前に「心臓で倒れるならシアトルで」で有名な、世界で「心肺蘇生法の市民普及の父」と言われているハーバービュウ・メディカルセンターのレオナルド・A・コブ博士に面会した時、「市民の意識啓発には25年はかかる。君にはその決意があるのか」と言われた。日本は島国国家で、「水と空気と安全はタダ」と思っている気質の日本人に対して、目の前に人が倒れた時、意識を確認し、意識がなければ命の危険があるという「命の危機意識」を啓発するには、心肺蘇生法の市民普及を行い続ける信念が必要と今更ながら思っている。
 
続く

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