「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.1:心肺蘇生法は「命の教育」

  人が生きがいを感じる時は,自分らしさを求めて行動している時であって,目指した人生目標を達成した時ではない.
  団塊の世代といわれ,何事も競争の世界で育った私は,1972年(昭和47年)に神戸大学医学部を卒業した後,同じ医者になるなら当時,かっこいい響きのあった心臓外科医を目指そうと思い日本のトップであった榊原仟教授の率いる東京女子医大日本心臓血圧研究所外科(心研)に入局した.
  ここは旧来の年功序列の医局制度に縛られた出身大学を離れて自分の実力を試そうと全国から集まった若き精鋭医師の集団であった.榊原教授の教えは,「君達は狼友だ」と真の団結力のすばらしさを語っておられた.
  狼友とは,東洋の思想より発し,よく逆境にも耐え,強い意志を持ち,群れをなしては団結力に富み,孤独にあっても荒野を駆けめぐる冷厳な魂の持ち主のことをいうのである.私にとってこの環境は水を得た魚の心境で,ここで今まで誰も取り組んでいなかった不整脈外科の研究に没頭した.
  榊原教授の退官後,日本で最初の心臓移植をした札幌医科大学教授の和田寿郎教授が後任教授として赴任され,心臓外科勃興期の2大巨頭に思いがけず師事する好運にも恵まれた.  
  1985年にアメリカ合衆国カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)医療センターに胸部臨牀外科准教授として留学したことも,将来,日本のトップの心臓外科教授になるステップと考えてのことであった.
  1986年(昭和61年)1月24日,島根県松江市で行われた日立対ダイエーのバレーボールの試合中に,フロー・ハイマン選手(アメリカのロスアンゼルスオリンピック銀メダリスト)が突然倒れ死亡したとのテレビニュースが飛び込んできた.長いラリーが続いている中,控えのベンチで突然前かがみに倒れたハイマン選手は,何をされることなく担架に乗せられて会場から運び出される光景が映し出されていた.
  日本で育った私にとってこうした光景は当たり前で,格段不思議には思わなかったが,そばにいた友人が突然,「なぜ,心肺蘇生法をしないのか」と叫んだ.「どうしてテレビで死にそうかわかるのか.君は結果論でいっているのだ」と反論したが,他のドクターやナースが「なぜ監督やコーチはタイムにしないのか」「選手より試合の方が大切なのか」「監督,コーチ,選手たちは心肺蘇生法を知らないのか」などと,次々と私にとって全く念頭にない批判の言葉を聞くにつけ,なぜアメリカ人はこんなことが指摘できるのか不思議でならなかった.
  実はアメリカでは中学校(ミドルスクール)の保健体育の授業の中で心肺蘇生法を30年前から生徒に教えており,日常生活の中での心肺蘇生法は当たり前の一般常識となっていた.私が一番驚いたことは,生徒に目の前で突然人が倒れたらどうするかを問いかけ,まず意識の確認を行い,意識がなければ大声で助けを呼ぶことを教えていた.まさに見事な「命の教育」がなされていることに深い感銘を覚えた.
  帰国してハイマン選手のそばにいた選手の話を聞いたが,「先ほどまで元気だったハイマン選手が,突然,顔面蒼白,意識が無くなったので貧血と思い,まず控えの部屋に運ぶことにした」と述べていた.アメリカでは,意識がなければすぐさま大声で助けを呼び,試合会場内で心肺蘇生法,ついで救急隊による救命活動が行われるのが当たりで,日本の救急体制の遅れのみならず日本人には「命の危機に対する感受性」そのものも欠如していると感じた。
  空気と水と安全はただと考えている島国国家に住む日本人には,自分の命の危険を感じることがないばかりか,いつしか他人の命の危険にも鈍感になってしまった.その上,他人とのかかわりを避けようとする国民性は,目の前で倒れた人の命ですら積極的に救おうともせず,救急車を呼べば良いとの考えが当たり前の世界となっている.
  日本人に欠けている「命の教育」に気づいた私は,アメリカでの貴重な経験を是非,日本に伝えたいとの思いが日に日に高まり,いつしか心臓外科医としての自分より社会啓蒙者としての自分の方が,これからの人生,より自分らしいと感じるようになった.生まれ故郷の兵庫県を活動の場に選んだのも,平成2年度から心肺蘇生法が兵庫県の県民運動になったのもこの思いから始まったことである.


続く 


Copyright(c) Tsuyoshi Kawamura, M.D.