平成6年度から全国の高等学校での保健体育の授業や自動車学校で心肺蘇生法の講習が行われるようになり、次世代のすべての若者に普及する一応の講習体制は整っている。毎年、県新規採用職員と県立高校新任教諭の新人オリエンテーションにて心肺蘇生法を教えているが、平成元年の講習を始めた頃と比べて、最近は非常に教えやすくなった。確かに若い世代に1度は心肺蘇生法の講習を受けた人が増えてきている。特に、自動車学校での講習が心肺蘇生法の普及に大きく貢献している。
残念ながら「命の教育」が行われていない日本においては、心肺蘇生法の講習は単に救命技術の習得にとどまり、その技術を救命に生かす心の教育にはなっていない。最近、兵庫県の自動車学校で、教習中の訓練生が突然の心停止に陥ったにもかかわらず、同乗していた教官が何もせずに救急車を待っていた事例を聞き、「教官は何のために心肺蘇生法を教えているのか」と自動車学校での心肺蘇生法の講習の意義をもう1度問い直さなければいけない。
日本においては昭和45年に交通安全基本法が制定され、小学校から交通安全教育として横断歩道の渡り方、自転車の乗り方などの交通ルールが教えられている。一方,自動車学校では運動技術の習得と交通ルールの教育に加えて、交通事故に遭遇した場合のドライバーの責任として心肺蘇生法を始めとする応急処置の講習がなされている。こうした交通安全教育は、「お互いに交通ルールを守ることにより個人の安全(命)が守られている」という観点に立ったものである。見方を変えれば、本来、この交通ルールは「お互いの命を守る」ための社会ルールである。自動車学校での心肺蘇生法の講習の意義もそこにある。
自動車は動く凶器と言われ、運転者の不注意と無謀な運転により自らの命を落とすだけでなく、交通事故に巻き込んだ他人の命も奪ってしまうことになる。自動車学校での心肺蘇生の講習において、「交通ルールは他人の命を守るためのものであり、自分の命も守られている」という「命の教育」がなされなければ、ただ免許を取るために仕方が無く受けることになる。
最近、14歳から17歳頃の思春期の若者がいとも簡単に人を殺す事件が多発しており、その背景には精神発育過程において他人とのかかわりの中で自己形成が出来ない未熟な人格(自己形成不全)が見え隠れする。「どんなことがあっても人は殺してはいけない」と誰もが自然に心に深く刻み込まれた社会道徳が崩壊しつつある。数年後には、彼らは運転免許を取る年代になる。どんな人でも自動車学校へ行けば自動車免許がとれる現行の制度では、いくら安全運転に心がけていても、アメリカ映画のカーアクションに見られるような相手の無謀運転により一般市民が2次的交通事故に巻き込まれる恐ろしい時代が訪れる気がする。
文部省も来年度から全国の全中学校の全クラスに一冊づつ「命の教育」読本を配布する予算を計上したとの報道があったが、今の親の世代にすでに「命の意識」「子供の躾」に対しの温度差があり、中学校教育というよりは小学校教育に社会全体が目を向ける時期に来ている。
以前にも紹介したが、今後の社会教育環境を整えるには、小学校のPTA活動を中心に、同じ小学校区内の子供と親の2世代において、まず、同世代の人間関係を深め、PTA活動を通じて親子が共に成長する「親子の思い出の共有感」が必要である。これが「地域が子供を育てる」という社会教育の基盤になると信じている。すでに多様化した保護者の価値判断のなかで、「お互いの命を守る地域づくり」こそが唯一の共通理念になりうるものである。
なお、この記述の一部は、総務庁主催の第16回交通安全シンポジウム「今後の交通安全教育について」(平成9年11月27日、奈良市)にて講演した。
続く
|