「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.24:命は誰のもの
  中学校の講演では、最初に中学生に「あなたの命は誰のもの」といきなり質問をすることにしている。「自分のものと思う人は手を上げて」と言うと、半数の生徒は「自分のものに決まっているじゃないか」と言わんばかりに手を上げる。一部の生徒は「親のもの」、「神のもの」に手をあげたが、残りは「分からない」との反応であった。
  人間はいつ頃から「死の意味」を理解するようになるのか。いじめによる小学生や中学生の自殺は「死の意味」を知っての行為とは思えない精神的未熟性がある。かって働いていた東京女子医科大学付属日本心臓血圧研究所で、心肺停止から蘇生した小児の心臓病患者が病棟で何もなかったかのように平気で遊んでいることに驚いた記憶がある。
  以前にもQT延長症候群の中学生のことを紹介したが、小学生の時にも何度か心停止が起こり蘇生したが、中学一年生の時の心肺停止からの蘇生後にはじめてこの病気で死ぬ恐ろしさを知った。こうしたことから、精神発育過程の中で「死の意味」を頭で理解できるようになるには中学生以後ではないかと思っている。アメリカでは心肺蘇生法の最初の教育が中学校1年生に行われているのもうなずける。
  欧米社会ではキリスト教が精神文化の根底にあり、「人間の誕生と往生に対して究極的な責任はない。人間には誕生と往生の間に位置する人生に対して二次的な責任がある。人間は人生において生きることを通してのみ死に向かう。」と教えている。幼少期から「命は神から与えられているもの。生かされた命」と教えられている国民には、殺人も自殺も神に対する罪の意識がある。
  日本では儒教精神が根底にあり、貝原益軒(1630-1714)の有名な「養生訓」の一節には、「人の身は父母を本とし天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの(御賜物)、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。」と書かれている。
  要約すれば「人の命は天から授かった、父母が残したもので、自分のものではないので、命を粗末に扱ってはいけない。」と述べている。自分の命は親から授かったものだから、感謝の心をもって親に孝行を尽くし、そのために自分の命をささげなければならないという忠孝の精神が強調された。忠孝のためには自分の命をささげることが美徳とされ、自分の死に対して究極の責任(死の決定権)を求めたことがキリスト教との相違である。中国に起こった文化大革命の嵐の中で、濡れ衣を着せられた多くの人が身の潔白を証明するために自殺したことも理解できる。
  戦後に行われた民主教育にて、特攻隊まで生み出した戦前の日本人の精神構造が否定され、高度経済成長や世代交代が進む中で、戦前の命のより所であった忠孝の精神が薄れ、「自分の命は自分のものであり、誰にもとやかく言われない」勝って気ままな自己中心的な精神だけが残った。
  基本的人権は、われわれに与えられた「権利」であるが,われわれはお互いの権利を守る「義務」も課せられている事を知らなければいけない。今、宗教的な思想教育のない日本人に対して「命の教育」に真剣に取り組まなければ、ますます他人の命に無関心な、孤独な社会が誕生することになる。心肺蘇生法の普及啓発は、お互いの命を意識し、「お互いの命を守る社会づくり」の共通理念を醸成する最も有効な教育手段である。

  続く

Copyright(c) Tsuyoshi Kawamura, M.D.