「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.35:東京女子医科大学附属日本血圧研究所の
過去と現在


  神戸大学医学部卒業後、心臓外科医を目指して東京女子医科大学附属日本心臓血圧研究所(心研)外科に入局したのが1973年である。当時、北の札幌医科大学の和田壽郎教授、東京の榊原 仟(しげる)教授が日本の心臓外科のトップの座にあった。東京女子医科大学は心研を皮切りに消化器センター、脳神経センターと次々に臓器別施設を立ち上げ、全国からは出身大学の医局を嫌い、おのれの能力の可能性を信じた多くの医師が医療の新天地に集まった。
  榊原教授の入局時の言葉は今でも忘れてはいない。「医者は医師免許証によって守られている。病気を治すためとはいえ、無傷の患者にメスで切り開いても傷害罪にならないのは医師免許があるためである。諸君たちは、まず、医師免許証の重みを心して立派な外科医になるように」と言われた。また、外科医の心得として、「鬼手仏心」、すなわち、「鬼のような高度な技術を身につけ、患者には仏のこころで接すべし」と言われた。
  当時、人工心肺装置を用いた体外循環技術は初期の開発段階で、心臓の中を開けて手術をする開心術は、大動脈の根元を遮断して30分以内に心内修復を行う技術とスピードの勝負であった。東京女子医大での手術成績は日本の他の施設と比べれば最高レベルではあったが、まだまだ満足できるものではなかった。心研内には手術成績の更なる向上のためには、新しい技術を臆することなく全力で取り組む気運がみなぎっていた。多くの患者が技術及ばずして亡くなったが、患者家族とともに全力を尽くした時代でもあった。手術が成功したときは無上の喜びを感じ、次なる挑戦の糧にした。常に女子医大の技術はどの大学にも負けない最高のレベルであるとのプライドがあった。
  東京女子医大心研とは、"狼友"の集まりである。狼友とは、東洋の思想より発し、よく逆境に耐え、強い意志を持ち、群れをなしては団結力に富み、孤独にあたっても荒野を駆けめぐる冷厳な魂の持ち主のことをいうのである。1970年から1980年代前半の心臓外科の創成期から充実期に心臓外科医として修練し、全力を投入できたすばらしい環境が過去の東京女子医大にはあった。
  本年6月28日に「手術ミスと証拠隠滅」にて東京女子医大心研外科の2人の外科医が逮捕され、女子医大の病院姿勢まで問われている大事件にまで発展した。しかも、心房中隔欠損症は心臓外科医となって最初に行う開心術で、手術としては簡単であるがゆえに事故なきように手術を行う先天性心疾患である。
  なぜ、正直に人工心肺の操作ミスによる手術死亡を家族に伝え、謝罪をしなかったのかと病院の姿勢が問われている。謝罪できないのであれば、組織ぐるみの隠蔽と言われても仕方がないと思う。体外循環を担当した10年目の外科医が、「自分は人工心肺をまわした経験があまりありませんので、まわせません」と正直に言えば、未然に防げたのではないだろうか。しかし、「10年目にもなっていて人工心肺もまわせないのか」と周りから言われることを恐れて言えなかったのかもしれない。また、その心の底にはたかが心房中隔欠損症の手術だからと油断があったのかもしれない。
  われわれの時代の心臓外科医の修練は人工心肺をまわす(操作する意味)ことから始まった。1986年にカルフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)医療センターに留学した当時、年間約2000例の開心術の体外循環はすべてパーヒュージョニスト(体外循環技士)が担当していた。ましてや心臓外科も成熟期となっている現在では、当然、臨床工学士の資格を持った体外循環技士に体外循環を担当させる必要がある。体外循環技士の人員不足を不慣れな外科医がカバーする時代は終わったと思う。先にも述べた事件後の病院の姿勢を含めて、これが現在の女子医大の本質かもしれないと思うと少し寂し気がする。
  責任を感じるとは、人の命を感じることである。

  続く

Copyright(c) Tsuyoshi Kawamura, M.D.