1997年9月6日に87歳で亡くなったマザー・テレサは、生涯にわたり人間愛を自らの行為で示した人であった.カルカッタの修道院が"死を待つ人の家"と陰口を言われた有名なエピソードが残っている.これは1979年ノーベル平和賞を受賞した時の講演で話された内容である。
当時(1952年)、貧困に喘いでいたカルカッタでは、毎日のように行き倒れの人が路上に横たわっていた。マザーは修道女と外に出かけ今にも死にそうな人を修道院に収容し、身体を拭き、衣服を着替えさせて手厚い看護を行った.この行為を理解できない周辺の人々は、「なぜ死にそうな人ばかりを看るのか」、「もう少し元気な人なら助かるのに」、「だから修道院が死を待つ館と言われるのだ」などと、陰口をたたいた。この時、マザーは、「私は、何もしておりません.ただ、口元に水をさしあげながら、生きていて良かったねとささやいているだけです」と答えられた。誰も看取られず死んで行くこの世で最も不幸な人に、「生きていてよかった」と言えるマザーの言葉の中に、この世に生まれた命に無駄な命は一つもないと言い切った底知れぬ深い人間愛を感じる。
数年前、学級崩壊で問題になっている大阪の中学校で講演の依頼を受けた。学校側に打開策がなく、ついにPTAが立ちあがったのである。PTA会長から生徒の2割は切れている学校であるが、一度私の講演を是非、生徒に聞かせてやりたいとの願いであった。講演終了後には父兄懇談会にも出席してほしいと頼まれた。講演会場である体育館に近づくと生徒指導の先生の怒声が聞えてきた。体育館には全校生徒約600名の他に200名程度の父兄が集まっていた。
ガヤガヤと私語が収まらない生徒の前での講演は、すべての力を出し切る話術の挑戦である。私の小学校2年生の時に経験した祖父の死に際の思い出、中学校時代の話しには全く興味はなく、心肺蘇生法の普及のきっかけになったバレーボールのハイマン選手の話しも通じなかった。檀上から生徒を観察していると、時々私語を止めて私の話しに耳を傾ける生徒がいることがせめてもの救いである。しかし、2年生の列の真中にいた2人の男子生徒は、全く聞くそぶりも見せず、ふざけあっている姿が気になってし方がなく、どんな話しに彼らが聞き耳を立てるのかが私の挑戦になっていた。
最後の手段として、だめだろうとは思いつつもマザーの「死を待つ館」の話を持ち出した。「マザーが死に行く人に耳元でどんな言葉をささやいていたと思いますか」と言って、マイクを持って生徒の列に分け入って質問をした。最初の生徒が「わかりません」と答えると、1年生、2年生、3年生と次々と質問をしても「わかりません」との返事のみであった。遠巻きを攻め本命の生徒にマイクを向けて、「君はどう思う」と質問すると、彼は「そんなもの知るか!」と言い放った。この時、怒る感情を押さえ、「わかりませんと言うより、これも立派な意見だ」というのが精一杯であった。
マザーの「生きていてよかった」という言葉を伝えた。更に、中にはマザーの腕の中で目を開け、最後の言葉を残して死んで行った人もあり、その人はどんな言葉を残したかと再度、列に分け入り質問したが、答えはやはり「わかりません」であった。本命の彼にマイクを向けたところ、意外にも彼の口から一言、「ありがとう」という言葉がでた。あまりの意外さに思わず「君こそこの世の中を将来、支える人間だ」と褒め称えた。その死に顔は美しかったとマザーは言っていることも生徒に伝えた。私には言葉の奇跡と思えた。
講演の終了後、学校で問題視している彼にこんな優しさがあることに気付かなかったとの校長先生の反省の言葉があり、帰りの廊下で彼とすれ違った時に「どうだった」と話しかけるとうつむいた彼の口から「はじめてだった」と感謝の言葉をもらった。
続く
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