「あなたは愛する人を救えますか」 |
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史 |
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Vol.6:大声で助けを求める行為の中に命が見える
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阪神 ・淡路大震災では,多くの人々が倒壊した家屋の瓦礫の下から救い出された.私の母親も助け出された一人であるが,「瓦礫の下で身動き出来なかった2時間の間,もし近所の人の声掛けがなければ,死ぬより恐ろしかった」と話していた.多くの救出例の中に,倒壊した家から抜け出した人が,瓦礫の下にいる自分の母親に必死に声を掛けたが反応がなく,そうこうしている内に隣の人の救助の声が聞こえたために自分の母親ではなく,近所の人とまず隣の人から救助したとの話しがあった.
今回の大震災では,倒壊した家屋から必死の思いで抜け出した住民同士が瓦礫の下に埋もれた残された家族に必死に声を掛け,声の応答があった人から優先して救出にあたった.こうした震災現場で住民の行為は,「まず助かる人から助け出す」という災害医療での“トリアージ”の概念が自然の形で行われていた.別な言葉でいうと,大災害は命の集団的危機であり,その場の限られた力の中では,多くの死に瀕した命の中から助かる可能性のあるものから救助の優先順位を決定せざるを得ないのが現実である.
それに反して,心肺蘇生法の世界は,平穏無事な環境の中で,目の前の人が突然倒れるという倒れた人の個人的危機である.心肺蘇生法による救命行為には,単に心肺蘇生法を行うだけでなく,正しく行われているか見守る人,救急車を呼ぶ人,救急車を誘導する人,激励する人など,一人の命を救おうとする多くの人の助けが必要である.その為には,目の前で倒れた人の命の危機を周辺に知らせる人がいるかが命を左右すると言っても過言ではない.事実,目撃者による心肺蘇生法の救命率が一番優れている.心肺蘇生法の実技講習会の話しの中で,私が一番強調している所である.
しかし,「空気と水と安全はただ」と思っている島国国家の日本国民には,これが一番難しいことなのである.安全神話に長年浸っていた日本人は,人との関わりを避ける気風が生まれ,事が起これば自ら行わなくても救急車を呼べば良いと考えている人が多い.アメリカでは中学校教育の中で,「目の前で人が倒れた時,すぐ隣の人が意識の確認をし,意識がなければ助けの人と救急車を呼んでいい」と教えている.
こうした「命の危機管理教育」が行われていない日本では,目の前でひとが倒れても,意識を確かめるどころか周りを取り囲んでただ見ている行動パターンが多い.心臓突然死は,平常時に突然起こる個人の命の危機であり,いかに多くの周囲の人々が救命に参加,協力できるかが救命のポイントとなる.倒れた人の命の危機を感じ,必死に助けを求める人がいればこそ,周囲の人々はその必死の姿の中に倒れた人の命の危機を感じるのである.
最近は,中学校,高等学校の講演会で,「命の話し」をしてほしいと頼まれる事が多くなってきた.高校生はおとなしく私の話しを聞いてくれるが,中学生に90分間,それも「命の話し」をおとなしく聞かせるには大変である.
姫路のある中学校での講演会での話しであるが,私は壇上から生徒を観察しながら「あの生徒は,どの話しをしたら私語をやめて私の話しに耳を傾けるのか」と話しの攻撃をするのが私の講演の楽しみ方である.全校生徒450名の中で,最後列に私の話しには全く興味のないといったそぶりで,最後まで椅子にふんどりかえってみたり,右や左に顔を背けたりしていた生徒がいた.先生も気にしてしょちゅうこの生徒に注意していたが,全くかまい無しであった.私の話しの攻撃も効果なくお手上げであった.最後に,「君達に命とは何かを教えよう」と言って,壇上に用意していた訓練用人形で「人が倒れたらどうするか」,それはと言って「大丈夫ですか,大丈夫ですか」,「意識がない」,「誰か来て」と私が出せる最大の大声を張り上げた.その時,彼だけが「ハ,ハ,ハ,ハ・・・」が声を出して笑ったが,周りの生徒が誰一人笑わなかったので,声をすぼめ決まり悪そうにしている姿が見えた.
講演の後,校長先生が私に感謝された一番はこの生徒の事であった.彼は学校の一番の悪で,彼をあおりたてる仲間もいて校長の最大の悩みであった.「今日は,自分だけ違うという事を勉強いてくれました」「先ほど廊下ですれ違った時,どうだったと言ったら,うつむきました」「本当にありがとうございました」と意外な心肺蘇生法の教育効果に自分自身が驚いた.
続く
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