「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.7:心肺蘇生法は「心の垣根」を取り除く

  この世に生まれ,医者になった私が,私しか出来ないものは何か,何にプライドを持つか,人生とはこの生き甲斐を求めて今を生きているような気がする.商売人の家に生まれた私が,毎日見ていた父親の姿,それは店で物を買ってもらったお客に「有り難うございます」と頭を下げる姿であった.人一倍負けん気の強かった私にとって,店にお使いに来た同級生にも頭を下げる父親がいやで仕方がなかった.小学校5年生の時に一家が神戸に引っ越してからは店と自宅とが離れており,それ以後は父親の商売の姿を見ることはなく,普通のサラリーマンと同じ生活を送っていた.
  私は,世の為,人の為に医者になろうとした訳でなく,ただ頭を下げずに出来る職業であれば何でも良かったのである.高校2年生の時,「大学行くなら経済学部か商学部に行って商売を継いで欲しい」と父親の頼みを聞いた時,父親が怒ることを覚悟で,「僕は,10円の物に頭を下げる商売はやりたくない」「自分は医者になるのだ」と答えた.意外にも父親は,どうしょうもない奴だと言った表情で怒りもせずに,「10円の物に頭を下げることが出来ない人間が立派な医者になれない」と言い切った.皮肉なことにこの父親との会話は,私の脳の奥深くに沈み込み,その後心肺蘇生法の市民普及のための講演活動を行うまで25年間思い出すことはなかった.
  アメリカ留学中の1986年1月13日の松江で行われたダイエー対日立の試合中,控えのベンチに座っていたフロー・ハイマン選手が突然倒れたにもかかわらず,タイムになることなく試合は続けられ,担架で運び出される光景がテレビニュースで映し出された.「目の前で人が倒れたなら,意識の確認を行い,意識がなければ救急車を呼びなさい」と中学生の保健体育の授業で教えているアメリカ国民には,「なぜ,日本人は心肺蘇生法をしないのか」と批判を受け,日本人の「命の教育」のなさを痛感した.
  帰国後,心肺蘇生法の普及活動を通して学校教育での「命の教育」の重要性を訴え続けた.この10年間,800回にわたる普及活動で学んだことは,人との接し方であった.本当に大切なことを信念をもって訴えるには,医者ではなくただの人間にならなければ誰も耳を傾けてはくれないことを学んだ.今ではだだの人間であることに満足感しており,むしろ誇りにも思っている.
  ある日のこと,姫路駅前で托鉢修行をしている僧侶がお経を唱えて立っている姿を何気なく眺めていた.通りがかりの老女が僧侶の左手に持っていたお鉢にお布施のお金を入れたその時に,なんと深々と頭を下げた僧侶の姿の中に,思ってもいなかった父親の姿が見えた気がした.民衆に説法を説く高僧であればこそ,民衆からの心ばかりのお布施に頭を下げた姿は,皆,同じ人間であると行為で示す姿に思えた.物を買ってもらい,代金を受け取り,感謝する商売人の当然の行為を蔑んでいた過去の自分を恥じた.今なら10円の物に頭を下げることに何の戸惑いもない自分がある.
  心肺蘇生法を普及する者として社会に何が貢献出来るか.その答えに迷いはなかった.それは「目の前で倒れた人を絶対助ける」ことを1人で行うボランティアと決めたことである.道を歩いている時も,すれ違う人の顔の様子がよく見えるようになった.心肺蘇生法に対する絶対的自信と医師としての誇りは,いつしか誰か倒れていないかなと期待するまでになった.どの人であっても,様子がおかしければ「どうしたのですか?」と声をかけられるようになった.相手の命を感じることは,お互いに“心の垣根”がなくなることである.いつしか,どの人とでも自然体で話せる自分が誕生していた.
  当世の無関心社会では,道を歩いていても自分の周りの様子に気を止めることのない人が多い.目の不自由な人が交差点にさしかかっても,足の不自由な人が階段を上がっていても,気もつかない人がいる.道で人が倒れた時,誰も声もかけられず死んでゆくほど悲しいことはない.声をかける行為こそが無関心社会を打ち破るものである.今の社会に求められていることは,まず「気に止め,見守る社会」であり,次いで「お互いの命を守る社会」へと成熟して行かなけ

 続く

Copyright(c) Tsuyoshi Kawamura, M.D.